その人が何処から来たかなど、どうでもいいではないか。 どんな地位にあるか、どんな功績があったのか、どんな血筋を引いているのか、など全くどうでもいいではないか。 ただ、その人の行いを見よ。 今ここに於いて、何をするのかを見よ。 行いが正しく、羞恥があり、身と心を慎んでいるのであれば、その人は生まれがどうあれ、今から高貴な人ではないか。
2024/11/15 (Fri)
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2014/05/28 (Wed)
「覚り」
インターネットで上ラダックの旅の模様を送ろうとしたが、3度も途中でフリーズし、1時間も費やしたが、結局 諦めた。
I phone がフリーズするのは初めてであり、3度も続けてもう少しで終わる… その直前でのフリーズ。
原因は標高が高く、気圧が低いから、写真が増えるとI phone が動かなくなる? だと思う。
しかしこの件がきっかけで、「覚り」に至った。
朝2時間のメディテーションを終え、心穏やかに向かったインターネットで、3度のフリーズで人の心とは別ものに変わってしまう…
1度、2度目はまだ自分の心を納める事は出来た。きっとI phone画面に貼ったフイルムが古くなり、汚れているのが原因だろう… そう考え、フイルムを剥がして3度目やり直した。
しかしそれでもフリーズし、自分の中に苛立ちが現れ始めた…
客観的に自分は見えてはいる。しかし一度 現れた苛立ちは、納めようとしても心はなかなか平常には戻らない。
しかしこの件で、全てのからくりが見えて来た。
仏教では少欲知足を説きます。
仏道は小欲の人のものであり、多欲の人のものではない。
仏道は足りることを知る人のものであり、不満な人のものではない。
また仏教は「捨てる道」を教えます。
「得る道」は、依存を増幅する道であり、「捨てる道」は自由を獲得する道であると。
何かを得る道ではなく、ものから離れていく道。
足りないから満たそうとするのではなく、ものがいらないということで、心を満たす道がある。
もしインターネットがなければ、この件の苛立ちは生まれなかった。
もし車がなければ、スピード違反や駐車違反での苛立ちが生まれる事もない。
テレビがなければ、途中で終わってしまう野球中継への苛立ちや、見逃してしまった番組への苛立ちも生まれない。
もし電気がなければ、停電への苛立ちも生まれなければ、政府への不満も生まれない。
ものがあるから、そこから苛立ちが生まれる。
苛立ち、怒りは、それがはけ口となり、関係のない事にまで、その炎は飛び火していく。
一度 怒りが生まれると、慈悲の心は完全になくなり、周りを見渡す余裕すらなくなってしまう。
何故 仏教はものへの依存を嫌うかと言うと、ものに頼って生きる事で、そのものの多さに比例して、苛立ちや怒りが生じるからだ。
そして慈悲の心が消えたなら、人はより自我が生まれ、世界は狭くなり、それはより苦しみの世界で生きていく事になる。
町を行き交う人々を見ていて思う事は、人が多ければ多い程、人には自我が芽生える… と言うこと。
これは本能的な自己防衛だろうが、村では気軽に挨拶出来ても、町では出来なくなる。
都会になればなるほど、殺伐とした雰囲気があるのは世界共通。
これは人間の自我、これが本能的に自己防衛する為に生まれるからだろう。
仏陀の解いた「無我」は、人里離れたような場所では、理解し易く、難しい事ではない。
それは町と村での対人関係を見れば、容易に分かる。
人々が助け合う村と、個人 個人がバラバラな町。
無我 = 慈悲 は村にあって、町にはない。
ならば多くの人々が暮らす都会では、何が大切なのか?
それは「気付く」と言うこと。
自分の心のからくりに気付く!
その為には、人は客観的でなくてはならない。
自分中心の自我の世界。その狭い世界にいては、それに「気付く」ことは出来ない。
インターネットや電気機器がどういう物か? 気付いている!ということ。
車に乗る事がどういう事なのか?
テレビというものが、どういう物なのか?
電気があるということが、どういう事なのか?
気付いている!という事。
そしてラダックの旅 最後で、自分の中の核になる「覚り」に出逢えた。
人は生きている以上、どんなに心を納めようとしても、しなくても、何かに対する憤り、苛立ち、怒り、が芽生えてしまう。それほどまでに心の動きは早い。
仏陀が「怒りは大敵」である事を覚ったのも、彼が人間だからであり、その感情に苦しんだから。
2012シーズン。ネパールで働き始めて何度となく現れた怒り。
その怒りに苦しみ、自分が嫌になったあの経験が、今シーズンの「覚り」、仏陀への教えへと繋がった。
そして今 思うに、怒りを納めようとしても、それは難しい事であり、大切なのは「今、ここ」の感情(自分自身)に「気付く」こと。そしてその原因を知ること。
自分を観るということ。
そこに集約される。
「すべては変わり続け、過ぎ去り、移ろいゆく」
これからの人生の核となる、ひとつの「覚り」が生まれた。
I phone がフリーズするのは初めてであり、3度も続けてもう少しで終わる… その直前でのフリーズ。
原因は標高が高く、気圧が低いから、写真が増えるとI phone が動かなくなる? だと思う。
しかしこの件がきっかけで、「覚り」に至った。
朝2時間のメディテーションを終え、心穏やかに向かったインターネットで、3度のフリーズで人の心とは別ものに変わってしまう…
1度、2度目はまだ自分の心を納める事は出来た。きっとI phone画面に貼ったフイルムが古くなり、汚れているのが原因だろう… そう考え、フイルムを剥がして3度目やり直した。
しかしそれでもフリーズし、自分の中に苛立ちが現れ始めた…
客観的に自分は見えてはいる。しかし一度 現れた苛立ちは、納めようとしても心はなかなか平常には戻らない。
しかしこの件で、全てのからくりが見えて来た。
仏教では少欲知足を説きます。
仏道は小欲の人のものであり、多欲の人のものではない。
仏道は足りることを知る人のものであり、不満な人のものではない。
また仏教は「捨てる道」を教えます。
「得る道」は、依存を増幅する道であり、「捨てる道」は自由を獲得する道であると。
何かを得る道ではなく、ものから離れていく道。
足りないから満たそうとするのではなく、ものがいらないということで、心を満たす道がある。
もしインターネットがなければ、この件の苛立ちは生まれなかった。
もし車がなければ、スピード違反や駐車違反での苛立ちが生まれる事もない。
テレビがなければ、途中で終わってしまう野球中継への苛立ちや、見逃してしまった番組への苛立ちも生まれない。
もし電気がなければ、停電への苛立ちも生まれなければ、政府への不満も生まれない。
ものがあるから、そこから苛立ちが生まれる。
苛立ち、怒りは、それがはけ口となり、関係のない事にまで、その炎は飛び火していく。
一度 怒りが生まれると、慈悲の心は完全になくなり、周りを見渡す余裕すらなくなってしまう。
何故 仏教はものへの依存を嫌うかと言うと、ものに頼って生きる事で、そのものの多さに比例して、苛立ちや怒りが生じるからだ。
そして慈悲の心が消えたなら、人はより自我が生まれ、世界は狭くなり、それはより苦しみの世界で生きていく事になる。
町を行き交う人々を見ていて思う事は、人が多ければ多い程、人には自我が芽生える… と言うこと。
これは本能的な自己防衛だろうが、村では気軽に挨拶出来ても、町では出来なくなる。
都会になればなるほど、殺伐とした雰囲気があるのは世界共通。
これは人間の自我、これが本能的に自己防衛する為に生まれるからだろう。
仏陀の解いた「無我」は、人里離れたような場所では、理解し易く、難しい事ではない。
それは町と村での対人関係を見れば、容易に分かる。
人々が助け合う村と、個人 個人がバラバラな町。
無我 = 慈悲 は村にあって、町にはない。
ならば多くの人々が暮らす都会では、何が大切なのか?
それは「気付く」と言うこと。
自分の心のからくりに気付く!
その為には、人は客観的でなくてはならない。
自分中心の自我の世界。その狭い世界にいては、それに「気付く」ことは出来ない。
インターネットや電気機器がどういう物か? 気付いている!ということ。
車に乗る事がどういう事なのか?
テレビというものが、どういう物なのか?
電気があるということが、どういう事なのか?
気付いている!という事。
そしてラダックの旅 最後で、自分の中の核になる「覚り」に出逢えた。
人は生きている以上、どんなに心を納めようとしても、しなくても、何かに対する憤り、苛立ち、怒り、が芽生えてしまう。それほどまでに心の動きは早い。
仏陀が「怒りは大敵」である事を覚ったのも、彼が人間だからであり、その感情に苦しんだから。
2012シーズン。ネパールで働き始めて何度となく現れた怒り。
その怒りに苦しみ、自分が嫌になったあの経験が、今シーズンの「覚り」、仏陀への教えへと繋がった。
そして今 思うに、怒りを納めようとしても、それは難しい事であり、大切なのは「今、ここ」の感情(自分自身)に「気付く」こと。そしてその原因を知ること。
自分を観るということ。
そこに集約される。
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これからの人生の核となる、ひとつの「覚り」が生まれた。
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プロフィール
HN:
kazu
年齢:
53
性別:
男性
誕生日:
1971/09/08
職業:
パラグライダー
趣味:
たそがれ、物想い、静寂、心穏やか、不安、楽しむ
自己紹介:
Kazu
Japan spirits and pride
Professional tandem / Adventure pilot
世界最高峰のヒマラヤ、神の国ネパールで生きていく為に始めた空飛ぶ道具パラグライダーでコマーシャルタンデムをやっています。夢は神の山マチャプチュレへの冒険フライトに挑戦すること。
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